Seth Network Japan
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自己本体と複数の自己

「知られざる」現実界 第1巻
セッション 692

マサ 訳

 こんばんは。
 (「こんばんは、セス」)

 さて、君達の夢に関する話から始めよう。自己本体(エンティティー)には自分のパーソナリティー達の経験がわかっている。少し待ってくれ…。

 君達流に言えば、その自己本体にとって君達の意識は一筋の流れ(いくつもの流れがあるうちのひとつ)に喩(たと)えることができる。そして、君達自身の個性のさらに大きな、その部分(自己本体)は、君達の生きている意識的、無意識的な情報の一切を完全に把握している。また、それは(自身と君達の)全ての部分からやってくる同じ種類のデータも認識している。

 君達は自分の体験を自分が馴染んでいる通常の意識のラインと同一視するので、「自分」という感覚を維持しながら「他の自己」の情報を「取り込める」ことはまずない。そうした情報が時々、君達の想念の中に滲(にじ)み出たり入り込んだりして融け込み、気づかれずにいることもあるだろう。そんな場合、それは君達自身の抱く想念パターンの色合いを帯びることになる。また、それは君達という存在の全体的な雰囲気に加わる。君達が(そうしたことに関する)理解やトレーニングなしに「他の意識」を知覚するには自分自身の意識を「失う」必要があるだろう。

 この話と昨夜ルバートが(ESP)クラスで語ったことには関連がある。彼は、執筆活動とは、まず、ある程度の距離を置いて(日常)生活を捉えるため、そして、どんな日であってもその日その日に備わっている、言葉に尽くせない独自性を保存するための一方法たり得ると話した。しかし、彼曰(いわ)く、そうすると、執筆活動自体がその日常の体験になってしまうことに気づくかもしれない。自分が怖れていたのは、普通の生活から一歩離れて体験を見つめるような手段もなく自分を見失ってしまうことだったのに、そうなったら、それと同じようにその執筆活動の中で自分を見失うことになってしまう、というわけだ。さて、この意見に私が一言付け加えてみよう:「それなら、元のねらいを守るため、執筆活動をしている自己から離れたところにいる、もう一つの『自己』を創造する必要があるだろう」。

 さて、実際的な話として、君達はそれと同じようにこうした他の意識を体験することはできないだろう。もっとも、ルバートの言う執筆家のように、いくらか距離を置くことを学んだとしたらべつの話だが。ピリオド。しかし、学んだとしても、他の意識を備えた自己の体験そのものが君達の生きているスペース(現在の日常生活)に取って代わってしまうことだろう。(だから)同時に両方の意識ラインをキープでき、どちらにおいても迷うことなく、それぞれの足場を保持できる、もう一つの自己が必要になろうというものだ。(これまでに)維持されてきたいかなるタイプの「普通」の生活においても、これを達成するのは非常に難しいだろう。